「天皇はリベラルか」が含む問題

以下は、基本的には、笛吹斑(うすい まだら)‏@chervbimさんの以下のツイッターへの応答です。

https://twitter.com/chervbim/status/551318893675831296

 

Ⅰ.私は存在/当為や方法二元論の思考は、社会認識の上で、未だに基本的な枠組みだと考えています。

 

これについては以下のPDFが一応概説的で参考資料としておきます。ご存じでしたらご容赦ください。

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/6246/4/kenkyu0080100160.pdf
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/12/5/12_5_70/_pdf@chervbim

 

存在/当為論は、人文社会科学では必ず直面する問題で、真っ当な研究者なら当然理解している筈なので、ツイッターでひつじさん宛には詳しくは触れていません。

 

最近ネットでよく見かける天皇リベラル論は、まずもって明仁個人の思考のリベラル性の認識をベースにしており、これは事実として彼の思考がリベラルか否かという話で、経験的な事実の当否についての言説となり、記述命題であるといえます。

 

他方「核の平和利用」は、核技術の非軍事的利用の是非についての考察であり、「許されるべき」か「許されざるべき」かという、規範命題であるといえます。

 

一方は記述命題で事実についての判断であり、他方は規範命題で政策についての判断です。両者は、基本的な性格が大きく異なり比較の意味が無く、ひつじさんの『「天皇はリベラル」ってのは、「核の平和利用」と同レベル』という発言は衒学的と考えます。

 

Ⅱ.さらにひつじさんは、天皇君主制の問題とは別に、天皇・君主個人の思考の分析をすることは、可能だけれど天皇制を強化するから不適切であり、言うべきでない。理由は理念に逆らうことになるからだと言うのですね。客観的に分析が出来ることでも、自分の政治的理念を弱めかねないことはしてはいけないと言う訳です。

 

研究者がここまで党派的行動を正当化するのは大変ショックです。自己の党派性に忠実な御用学者であることが研究者のあるべき姿だというのですから。

 

例えば今日、川崎で大気汚染と気管支ぜんそくとの影響はないという研究結果が報道されました。http://www.kanaloco.jp/article/77419/cms_id/100666

 

ひつじさんの考えに従えば、患者救済を理念とするなら、そもそもこんな研究自体してはいけないという話になりかねません。

 

勿論、戦前の日本を含め、旧ソ連などの全体主義国家では、そのような姿勢は当然でした。しかし、それが研究者として話にならないことは明らかでしょう。

 

尚、ひつじさんは、天皇個人の思考をリベラルだと判断することは、それは天皇を褒めることになることだと批判されました。これはもう正直絶句するしかない発言です。

 

リベラルとの評価が褒め言葉になるという発想も微妙ですが、この場合、その人がどういう思考をしているかを考えることが、その人を褒めたりけなしたりすることになるというのですから、呆れかえるとはこのことでしょう。近代的な思考とは完全に無縁で、これではどうしようもありません。

 

Ⅲ.繰り返しになりますが、A)天皇という地位及び天皇をめぐる制度の認識・評価とB)天皇個人の思考のあり方の認識・評価はきちんと峻別の上、それぞれについて独立に考察されるべきと考えます。

 

特に重要なのはBがAに直ちに影響を与える訳ではないことです。個人の思考がどうあれ、地位がもたらす責任は原則として回避できないのですから。

 

なぜこのような考察が重要かというと、Aだけで十分な考察は不可能だからです。例えば、死刑廃止論者が死刑を担当する大臣として処刑を命じることがあります。クリントン政権の司法長官がそうでした。

 

なぜこのようなことになり、それはどういう意味を持つのかを、アクチュアルな問題として考えることはとても重要です。法執行者としての良心と個人としての良心とは何かなど考えるべき重要な点が多くあるからです。歴史家に委ねて済ませる問題ではないのです。

 

特に日本の天皇制は象徴君主制で、比較憲法的にみても、最大限国政に関する権能を奪われています。政府のコントロール下にあるべき徹底した象徴天皇制で、天皇の個人的考えを考慮することは許されるべきでないという考え方もあります。しかし、思考することとそれを政治に反映させることはまた別なことだろうと思います。

 

国政関与の線引きなどを考える上でも、個人としての天皇の思考や行動はどう扱われるべきか、改めて考える必要があるでしょう。

 

特に、壊憲的政権と護憲天皇という図式があるなら、これをどう考えるのか。壊憲的政府に敵対的な護憲天皇を、壊憲的政府が退位や制限させることは、憲法尊重擁護義務がある中で、立憲主義的にどう評価すべきか。退位の後、壊憲的・権威主義志向的な天皇を据えることは許されるのか、等々様々な考察が必要になります。

 

実際、フランコ後のスペインのように、君主がファシストから立憲主義を護り復活させるというようなケースも現実にはある訳です。

 

ですから、天皇個人の思考を探ることも、現実政治の上でも、立憲主義の上でもアクチュアルな問題だと思います。

 

特に、壊憲が眼前に迫り、現状より明らかに酷い神権的権威主義天皇制の実現が迫っています。情緒的反天皇制論者は、どんな天皇制でも一緒だと暢気に思っているかも知れませんが甘すぎます。

 

自民党改憲案では天皇中心国家としての性格が全面にでており、天皇は元首となり、「天皇を戴く国家」であることが明文化され、君が代尊重も義務化されます。天皇憲法尊重擁護義務は無くなり中世的な完全な無答責が実現する一方、新たに国民に憲法尊重擁護義務が科され、人々に天皇中心国家への忠誠が強制されます。

 

これらにより、実際は、いまより遥かに、権威主義的であり、運用が神権的になっていくと予想されます。

 

不敬罪の復活すら十分あり得る状況です。そうなれば、反天皇などネットですら口に出せなくなる可能性すらある訳です。反天皇を書けば、ネット右翼から不敬行為と告発され、告発を受けた検警察は、容疑の有無を確かめるためとして、喜んでガサ入れや逮捕をかけてくるでしょう。起訴などしなくても、それだけで十分威圧になります。実現すれば、前の方がずっとマシだったとなるのは明白です。

 

このように、現状よりも桁違いに酷い神権的権威主義的な天皇制の実現を目の前にして、ただ天皇イラナイと言っていれば済むとはとても簡単には言えない状況です。

 

明仁が真にリベラルなら即退位すべきと言う声もありますが、徳仁文仁と考えれば、どうみても事態はもっと悪くなりそうです。文仁の場合、軍国主義的で政治的に活発だった秩父宮を敬っているという話もあるくらいですから。

 

そういった様々なことをまずは考えてみる。それもまた必要なことだろうと思います。